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『今日の5の2』最終13話.「ユビキリ」

 主人公らが幼い頃交わした淡い思い出を軸に、三十分一つの話で通す、最終話。
 「結婚する」と「おねしょをナイショに」という、気恥ずかしいのは同じでもベクトルが全く違う二つの約束を取り違えてしまうコメディーの構成は、笑う程ではなかったけれど心地良いもので、このアニメの最後を締めるのに相応しいエピソードだったと思う。
 もうちょっとエッチな部分があると、更に らしかったかなあ。
でもまあ、そうすると ほのぼのした雰囲気にまで影響を与えてしまうので、これが正解か。

 携帯電話やゲーム機など、現代の子供らしい遊びや小道具が ほとんど登場せず、『ちびまる子ちゃん』は言い過ぎでも『ドラえもん』ぐらいにはノスタルジックな作品だった。
 子供達それぞれの個性が馴染み、とても楽しく見られるようになってきた所だから、終わってしまうのは寂しい。
 特に不思議少女・カズミの言動や行動には、毎回 魅了されっぱなしだった。
どういう家庭環境で育つと、こんな子が出来上がるんだろう?

 そういえば、家や家族の描写と縁がない作品でもあったなあ。
子供時代には大きな影響を及ぼす存在であったはずの親が登場しない事で、リアルと言うよりファンタジー寄り、「今生きている子供達の物語」ではなく「子供時代の楽しかった思い出を、場面をセレクトして回想してる」ような雰囲気になっている。
 そうする事で、世界の捉え方を変にリアルにしない分、えっちな描写も いやらしくはなく、女性視聴者でも受け入れやすいモノに出来ていたと思う。
 まだ原作が残っているなら、『みなみけ』と交代で途切れず同枠放送を続ける形式にしてくれると、嬉しい。
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『機動戦士ガンダム00 2nd season』13.「メメントモリ攻略戦」

 メメントモリを破壊したかったら、旧デュナメスでも地表から大気圏外への狙撃が可能だったので、もうチョイ出力を上げて破壊力のある弾頭を積み(可能かは知らないけど)、地球上から狙い撃てば良いのでは?と思ったけど…
 メチャメチャ頑丈なんだなあ、メメントモリ。
「ミサイルを二、三発当てれば取りあえず機能異常を起こすだろうから」というの前提で考えていたけど、そんなの蚊に刺されたぐらいにも感じなさそう。
 モビルスーツの長距離狙撃ぐらいでは何の効き目もなく、うかうかしているウチに逆に攻撃を受けて自機体を破壊されかねない。

 では、どういう作戦で破壊するのか、と思えば、力任せ・勢い勝負の強引なモノ。
 こうなると、「なるほどその手があったか!」という感心は無いため、演出でいかに盛り上げるかが命。
 展開したシールドが次々に破壊されていく中、猛スピードでオービタルリング上を突き進むトレミー。
その軌道が唯一、敵の自由な攻撃を妨げるものだから、だろうけど、「限定されたライン上を敵中枢に向けて飛行」というシーンを見ると反射的に『スター・ウォーズ episode.4』クライマックスを連想してしまうのは年寄りのサガ。
 何段階かに分けて襲ってくる危機と、それを乗り越える過程が上手く構成できており、ただ面白く見ていれば良い娯楽話だった。

冬コミケ、終了

 徹夜で作ったコピー誌は、お陰様で開場後すぐに完売させて頂きました。
 せっかく行ってやったのに もう無かったぞ、という方、申し訳ありません。
人力で製本するコピー誌は、どうしても発行部数に限界がありまして…そう沢山 用意する事が出来ません。
 夏は、もっとマトモな形で本を出せればと…こんなこと毎度言ってますが。

 徹夜明けでボーッとしていたため、対応が変だったかも知れません、ごめんなさい。
でも普段から大体あんなモンです。
 眠さと空腹のため、割と早い目に会場を後にしてしまいました。
午後遅くにスペースを訪れて下さった方、すみません。

 あれもこれも反省しつつ、取りあえず、寝ます。
 皆様、お疲れ様でした。

『かんなぎ』最終13話.「仁、デレる」

 重苦しい話が続いていたが、「何でこんなにも重苦しい事になっているのか」が よく分からず。
せいぜいでナギの正体について仁が問い詰めたとかそのぐらいのイベントしか起きていないのに…こんな大事になる程の出来事だったのか?と疑問を持ってきたが…
 ああ、「自分探し」という事なのか。
自分は一体ナニモノで、ドコから来てドコへ行くのか、人間の根源的な不安。
超越者である「神様」が、こんな所に引っ掛かるとは思わなかった。

 物語の仕掛けとしても、超越者はあくまで超然としてあり、相対する「たかが人間」が不安にかられたり迷ったりする、というのが普通。
 まあ、ナギの中には二つの人格があり、「超越者」と「普通の女の子」が同居しているため、後者は迷い始めても仕方ないのか。
 この「普通の女の子」人格は何故生まれたのか、それが不思議。
いや、ストーリー上の設定ではなく、作品を作る上での作者の都合として。
普通の男の子と恋愛を成り立たせるには、博愛の精神を持つ「神」では なかなか難しく、普通の女の子としての側面を持たせる必要があったのかな。

 実際の所、仁はナギを「神様」と認める事が出来ていないと思う。
高飛車で拗ねやすく、泣き虫で素直で可愛い、一緒に暮らして楽しい一人の少女として認めただけで。
 「歌の才能があると信じる」とかいう程度には、彼女の中の神という「才能」を信じて上げられたのかも知れないが。

 まだまだ続くドタバタコメディーを予感させる、ガチャガチャしたエンディングが楽しい。
自分が期待していたのは、こういうモノで。
 原作が止まってしまったけれど、人気からすれば、第二期も期待できるだろう。

『とらドラ!』13.「大橋高校文化祭(後編)」

 大河と父親の関わり、周囲で起きていた竜児と実乃梨の感情的対立、それら全ての解決編。
 キャラクター個々の感情面を、表面に見えるだけではなく、ずっと深い所まで描いており、それを受けた相手の反応もまた通り一遍ではなく複雑なもので、読み取れれば読み取れるほど味わい深く、面白く見られるだろう。

 前々回、大河に父親の誠意を認めるよう詰め寄る竜児が、自分のその気持ちは「大河を思ってのもの」ではなく「自身の亡き父親に向けたもの」ではなかったか、と気付き、これまで見せた事の無かったような表情をしてしまう。
 元々父親を認めたい気持ちは心の底にあったのだろうが、その激しい痛みを伴う竜児の表情に、自分の抵抗が彼の心の奥底に沈めた「傷」に触ってしまう、気付かせてしまうのだと感じ取った大河は、「もうそんなツラするんじゃない」と、「竜児のため」父親を受け入れる事に決める。
 そうして、ようやく修復した大河と父親の仲を否定的に捉える実乃梨を、竜児は容れる事が出来ない。
都合の悪い事に目をつぶってでも、彼女の父親は正しく、誠実で、価値のある存在で「なければならない」。

 何があったかは分からないけど、約束をスッパリと破り一緒に暮らす計画も反故にする大河父は、スチャラカが過ぎて逆にちょっと面白くなってしまうキャラ。
趣味や興味、「一番大事なもの」が次々変わっていく、一貫しない軽やかな人間性の持ち主なんだろうな。
 友達としてなら付き合ってみても楽しそうに思うが、父親として、しかも孤独に過ごしてきた大河の気持ちを受け止めるべき父親としては、最悪。
 一途な恋愛感情を持ち続けている(ちょっと揺らいでいるが)大河・竜児らからすると、認められないし認めてはならない存在だろう。

 恐ろしい形相で走り出す竜児、アタシの屍を乗り越えていけ!とばかりに援護攻撃を行う実乃梨、一緒でなければ意味がないと手を差しだした竜児と共にゴールを切る二人、それを見つめる大河。
どうしようもない親がもたらした、どうしようもない苦しさを(実乃梨が見せた意外にダークな部分の印象と合わせて)吹っ切るに十分なアクション劇。
楽しく、爽快で、ホロリと来る。
 文化祭の終りを告げる炎の中で、様々な想いが昇華されていき、「青春だなあ」という心地良い感想を持って見終えられてしまう、良いエピソードだった。

『ヒャッコ』12.「一姫二太郎三虎子」「虎子故に迷う鬼心」最終13話.「四人虎を成す」

 原作に対する自分のイメージは、「危うい所のあるコメディー」。
危うい、というのは作劇技術とか演出力を指すものでは勿論なく、キャラクターやドラマがいつか思いも寄らない方向へと転がりだしてしまいそうなドキドキがある、というか…うーん、上手く説明できないけど。
これは、作者の独特な感性に寄っているのだと思う。
 それがアニメでは、「安定したほのぼの学園コメディー」になっており、危うさなどドコにも無い、癒し系ですらある雰囲気を醸し出していた。

 などと偉そうに言いながら、虎子の家庭の事情を全て明かすエピソードまでは、原作を読んでいない。
だから、原作ではどういう扱いが成されているのか分からないが…
 アニメのテイストからすると、こうして「不思議な考え方をし、不可解な行動を取る」虎子の性格が構成された要因を全て明かし、スッキリと分かりやすくして終わる やり方は、実に妥当。
 個人的に、虎子がビンタを食らって真面目に泣きながら駆け出す姿、なんてのを見たくはなかったけど。
 第一話に到る前段階を描き、シリーズを輪にして終わる最終回も、アニメの流れとしては納得できる。

 作画に酷い乱れが見られる話数が多く、アニメとして高品質だったとは言い難い。
 良く出来た作品であった、とも言えないけれど…
大きく原作の良さ・キャラクターのお陰があり、嫌いになれない、ほわほわ~としたアニメだった。

『喰霊-零-』最終12話.「祈焦 -いのりのこがれ-」

 この作品は、とにかくショッキングなスタートを切り、一話、二話の時点では次回どういう話になるのか予断を許さず、見る者を驚かせ続けていた。
シリーズを始めるに当たり、「ツカミ」は、アニメ史上でも まれなぐらい強力だったと言える。
 自分も、どういう作品構成になっているのか興味を持って見続け、一度過去に戻って一話に到るまでを語っていく形になると分かってからは、「どのようにして あの凄まじい第一話に繋げるのか」に期待をしてきた。
 が…黄泉が大ケガを負ってダークサイドに堕ち、殺生石に取り憑かれ感情のままに虐殺を始めるようになって以降、当然こうなるだろう、という道筋が見えてしまい、事実その通りに展開していった事で、物語に対する興味は低下気味。

 黄泉が、「悪役」を大変に楽しく演じているように見え、堕ちていく自分に対する抵抗の描き方も弱かった事で、彼女を可哀想だと思う気持ちは、自分には小さかった。
なので、「悲劇」としての求心力も弱く(黄泉が発する悪の魅力は強烈だったが)。
 彼女と戦う事が出来ず苦悩する神楽はじめチームの面々にも、感情移入度は薄い。

 シリーズを通してバトルには迫力があり、アクションも凝っており(刀身から飛び出す薬莢で意表を突くとか)、最後まで崩れない作画は高品質。
 正気と狂気の境目で愛憎が激突するクライマックスと、余りにもキレイに少女二人の運命が閉じていく様子には、文句を言いつつ見ていた自分でさえ、涙目。
 決して出来の悪い作品ではない。

 一話、二話を見終えた所で自分の中の勝手な期待値が限界を超えて上昇してしまい、「シリーズ冒頭を越える超弩級展開」が見られるモノと思い込んだ事が作品との齟齬で、破綻なくキレイに終わった物語にさえ不満を感じてしまった。
 余分な肩の力を抜いて、少女二人が辿る悲劇の運命を素直に注視していけば、正しく作品内容を受け取れるのだろうと思う。

映画『バイオハザード ディジェネレーション』

 映画『バイオハザード ディジェネレーション』を見る。
 カプコンによる、大ヒット・ホラーゲームシリーズの、これはハリウッド実写版ではなく日本製フルCG映画版。
 『ホワイトアウト』『日本沈没』等で特撮監督を務めた神谷誠の、長編監督デビュー作。
脚本は、『DARKER THAN BLACK -黒の契約者-』シリーズ構成の…と言うべきか、映画『CASSHERN』脚本家の一人と言うべきか、菅正太郎。

 物語は、シリーズの流れの中にあり、ゲームを全く未プレイで この映画を見ても、細部はよく分からないだろう。
「ゾンビやらモンスターが出て、それと主人公達がタフに戦う」というのが映画の、そしてゲームでも毎度のストーリーなので、全てを理解しようとしなければ「何が何だかさっぱり分からない」事は無かろうが。
 CGによるキャラクター造形は、最初 少し違和感があったけれど、すぐ気にならなくなってくる。
それより、ゲーム中のムービー部分を見ているような気分になる事が多く、「どの辺りからコントロールをコチラに移譲してくれるんだろうか、今ゾンビに囲まれているから、取りあえず手近な奴を撃って有利なポジションに移動しなければ…」とか ぼんやり考えている「ゲーム脳(誤用)」ぶりに我ながらビックリ。

 作品冒頭、空港での対ゾンビ戦が、一番楽しかった。
それは、ゲームでも、どんなモンスターよりゾンビが好きな自分の嗜好に寄っているのだと思うけど。
 ただ…時間を経るごとに薄れていく緊張感や、割と いい加減なプランで何となく上手く行ってしまう救出行動など、余り感心できる内容ではなく。
「自分が」主人公となって遊んでいるゲームなら、「自分が」緊張しつつ行動するし、「自分を立てるため」作戦に穴が空いているのも容認できるのだが。

 イベント的な映画だろうと思っていたため、空港での事件が早めに片付き、普通の映画のようにキャラクターを彫り込みストーリーを語り出すのに驚く。
 これが…うーん、ゲーム『バイオハザード』的な物語を求めていた客層には、期待に対し必要十分だったと思う。
しかし、映画みたいな体裁を取るなら きちんと映画にしてくれ、と考えつつ見ると、事件の行方もドラマの構成もキャラが背負う事情も、薄味で物足りず。
 映画なら、ゲームとはまるで違う作り方が出来るはずなので、形式に縛られない『バイオハザード』を見せて欲しかった所。
「ゲームファンを満足させる内容」に特化させた事で、狙い通りゲームファンからは評価が高い映画になった訳だから、こう言われても制作者は「意図して切り捨てた方向を求められましても…」だろうが。

 アクションは迫力があり、施設内の非人道的な仕掛けは、らしくて楽しい。
文句を言いつつ、「ゲームシリーズのファンとしての自分」は結構 喜んで見ており、フクザツ。
 含みを残すエンディングは、次作ゲームに続くのだろうか。
ああ、『5』を遊ぶため、PLAYSTATION 3かXbox 360、どちらかを買わなくては。

『屍姫 赫』12.「夜明け」

 景世死亡、そして兄に代わりマキナと契約を結ぶ事になるオーリ。
 ようやっと、傍観者的な視点から、主人公が主体的にバトルへと関わる事になった。
ここから本当の物語が始まる…と言っても良いぐらいじゃなかろうか。

 しかし、これが可能なのなら、やっぱりミナイも助けてやって欲しかったなあ。
それはストーリー上の矛盾だとか不備だとか言いたいのではなく、「彼女が可哀想だ」という意味で。
 続いてマキナとも契約し、まとめて二人にパワーを吸われ、しかも自分を巡る少女達の感情的対立に神経をすり減らして、ヘロヘロになっていくオーリ…というのは、萌え・ハーレム作品として結構楽しげかと。
 契約僧と屍姫の関係は、そんな陽気で気楽なモノじゃねーよ!という事だろうし、そういう方面の欲求は『セキレイ』ででも満たされてくれ、か。

 景世を「屍兄貴」として使う事は出来なかったんだろうか。
通常、使える屍は女性に限る、って設定があったんだっけ?
 まあ、それじゃ絵として余りにも色気に欠けてしまうが。
…女性視聴者向けには、「屍美少年・美青年」を使役する男達の活躍を描く、別バージョンが有り得て良いのかも。

映画『地球が静止する日』

 映画『地球が静止する日』を見る。
 1951年のSF映画『地球の静止する日』を、キアヌ・リーブス主演でリメイクしたもの。
共演のジェニファー・コネリーは、年齢を経てもやはり美しい。
 オリジナルは、タイトルと大まかな粗筋を知っている程度で、未見。
 地球へと降下してきた謎の巨大球体。
その中から現れた男を巡り、地球の運命を賭けた物語が始まる。

 古典のリメイクだから当然なのだろうが、とても懐かしいタイプの映画。
「人類は危険な存在ではないか」
「我々に生き残る資格があるのか」
といったテーマを扱う。

 エイリアン(?)と関わる地球人女性、彼女が抱える家庭内の問題、「力」しか信じない無理解な政府の面々、人類を見舞う絶対の危機を切り抜ける最後の切り札は果たして…
筋立ても出てくるキャラクターも、古典的。
 とはいえ現代の映画らしくCGは派手で、破壊を行うシーンの迫力など、なかなか。
 キアヌが発揮する不思議な力…特にヘリから照射されるレーザーサイトの光(かな?)を掌で「押し返して」ヘリの計器に異常を生じさせる無茶苦茶なアイディアには、笑ってしまった。

 が、逃走劇で米政府が見せる無能さ・間抜けさは最近の映画とすると驚くべきレベルにあり、人間同士の関わりは概ね地味で、キャラクターの煮詰め方が弱いためか展開に説得力が乏しく、ために映画のラストにもモヤモヤが残ってしまう。
 ヒロインとエイリアンの恋愛感情、なんてモノは全く描いていないし、「追い詰められたら変わるかも知れないから」だけでは人間を信じる理由には弱い。
…それで納得できるなら、そもそも手前らの勝手な理屈で人類絶滅なんて目論むなよ、どんだけ雑なリサーチしてるんだ、と思えて。
 ヒロイン家庭での、義息子との関わりは、もっと物語に活かせた所かと。
父親の代わりとしてキアヌを慕い始める息子と、向けられる愛情に戸惑うキアヌ。
人間は、恐れ・嫌い・殺したいとまで思っていた相手とでも、いつか仲良くする・愛する事さえ出来る、そういう可能性を秘めた種族である…という辺りを、子供が示す「未来への希望」に込めて、彫り込むべきだったのでは。
 先住老エイリアンの人類に対する複雑な感情、老学者とエイリアンの知的に高度な会話なんかは楽しく、味わい深かったんだけど。

 圧倒的な力を持つエイリアン対人類の激戦を描くバトルエンターテイメント、もしくは そういう部分を切り捨てて、人類の絶望的な種族的問題とパンドラの箱の最後に残ったほどの「希望」を しっかり描くドラマ、どちらかに特化した方が見易く、面白くなったと思う。
 実際には酷く中途半端な出来に終わっているが、まあ、古典のB級SFをテレ東昼間の映画枠で見る気分で鑑賞するなら、そんなに悪くない、それなりの映画。
プロフィール

飛龍 乱

Author:飛龍 乱
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ですが、現在HPは更新できなくなっています。

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