映画『009 RE:CYBORG』
石ノ森章太郎先生の名作『サイボーグ009』を、神山健治監督が再構築して映画化したもの。
麻生我等先生によりリニューアルされたキャラクターデザインを、3Dモデル化して動かすことで、元の漫画とは大きく印象が変わっている。
事前に最悪の評判ばかり聞いていたためか、そこまで酷くは感じなかった。
画面のクオリティーはドコにも手を抜かず高いし、アクションのアイディアや演出も素晴らしい。
別人、と言って良いほど変えられたキャラクター達なのに、元の石ノ森デザインを思わせる瞬間が作られている、この演出力には感心。
特に003・フランソワーズが色っぽく、3D造形であることを忘れそうになってしまう。
問題は…
描きたいもの、言いたいことに合わせるため、既知の性格付けとは違った内面にされているキャラクターが居ること。
ブロンクスのワルだったジェットが、アメリカ万歳な人間になるかなあ。
人情家、ではなく、容易に人を信じず冷静な指揮官ぶりを見せるギルモア博士に違和感(『攻殻』課長のよう)。
メンバーのうち数人、祖国のために働いており…その選択が必ずしも「平和のため」役立っていると思えないのも残念。
サイボーグ達はともかく、イワンとギルモア博士まで年月を経ても外見が変わっていないのは、??
時間経過を表し、青年(中年?)姿のイワンや死の床にあるギルモア博士を見たかったのか、と言われればそんなことはないんだけど、リアルにしてしまった世界観や劇中ハッキリ年数経過を口にすることと考え合わせ、気になる。
危うく恐ろしいことをするところだった自分に、さして動揺していないジョーが不自然。
ナイーブ過ぎる性格を持つからこそ、記憶操作が行われていたんじゃないの?
その記憶回復も、ギルモア博士のところへ連れて行けば安全に出来たんじゃないかなあ。
映画的ハッタリのため、とはいえ、フランソワーズらがあんなムチャをする理由がよく分からない。
ドバイ上空でも、ジョーとジェットの目的は同じだったはずで、他の何よりも惨劇を防ぐべきだったのでは。
もう間に合わない状況だったのかも知れないけど、恐ろしい被害を出す前のプロセスなので(ジョーは一人助かっちゃうし)、もっともっと注意深く繊細な描き方をしないと。
物語は、様々に謎を残して終わる。
目に見える形で「敵」だった企業さえ、まだ残ってるんじゃなかろうか。
ジェットは「やっちゃった」のかそうでないのか、ジョーの同級生少女は「彼」か「フランソワーズによる干渉(守護?)」か。
この作品での神とは、外的・内的どちらの存在だった?
特にラスト、不思議な力が働く訳で、外的「にも」存在していないと筋が通らない。
分からない部分について、矛盾なくキレイに解き明かすことは、制作者にも難しいのでは。
「実はコレコレこういうことだったんですよ」と語るのは出来るけど、「それも一つの考え方だよね」ぐらいにしか受け止めてもらえない恐れ。
聖書的モチーフだったのかな、と思う。
「ソドムとゴモラ」で、穢れた街を滅ぼすという神の使いに、心の正しい者も居るはずなのでそれを思いとどまって欲しい、と懇願するアブラハム。
最後に、「もしも正しい者が街に10人いたら、その10人のために滅ぼすことをやめよう」という約束にまで漕ぎ着ける。
結果、人数を満たすことは出来ず、街は滅ぼされてしまうのだが、「10人」って、サイボーグ戦士とギルモア博士を入れると丁度の人数。
また、街から逃げ出すアブラハム一家に神の使いは、「命がけで逃げなさい。振り返ってはならない。立ち止まってはならない。さもないと滅ぼされてしまうだろう」と言うのだけれど、ドバイで加速装置を使うジョーの姿に重なる…ような。
人の脳…心には神も悪魔もおり、善い面が勝れば穏やかな水の都を擁する地球に、悪い面が勝れば荒涼として生命のない月になってしまう、とか。
水の上を歩くのは、キリストの奇跡。
最後にフランソワーズが着ている純白の服は、何だかマタニティ・ドレスにも見えたので、そういう奇跡も…さすがに考え過ぎか。
つまらない訳ではなく、それはそれなりに楽しく見たし、入場料損したとは思わせない。
しかし、日曜日夕方の鑑賞で劇場は三割程度しか埋まっておらず、興行的に厳しそう。
続編やテレビシリーズ展開は難しいだろうな。
もっと分かり易いエンターテインメントにしてくれた方が嬉しかった。
それでもテーマは描けるはず。
麻生我等先生によりリニューアルされたキャラクターデザインを、3Dモデル化して動かすことで、元の漫画とは大きく印象が変わっている。
事前に最悪の評判ばかり聞いていたためか、そこまで酷くは感じなかった。
画面のクオリティーはドコにも手を抜かず高いし、アクションのアイディアや演出も素晴らしい。
別人、と言って良いほど変えられたキャラクター達なのに、元の石ノ森デザインを思わせる瞬間が作られている、この演出力には感心。
特に003・フランソワーズが色っぽく、3D造形であることを忘れそうになってしまう。
問題は…
描きたいもの、言いたいことに合わせるため、既知の性格付けとは違った内面にされているキャラクターが居ること。
ブロンクスのワルだったジェットが、アメリカ万歳な人間になるかなあ。
人情家、ではなく、容易に人を信じず冷静な指揮官ぶりを見せるギルモア博士に違和感(『攻殻』課長のよう)。
メンバーのうち数人、祖国のために働いており…その選択が必ずしも「平和のため」役立っていると思えないのも残念。
サイボーグ達はともかく、イワンとギルモア博士まで年月を経ても外見が変わっていないのは、??
時間経過を表し、青年(中年?)姿のイワンや死の床にあるギルモア博士を見たかったのか、と言われればそんなことはないんだけど、リアルにしてしまった世界観や劇中ハッキリ年数経過を口にすることと考え合わせ、気になる。
危うく恐ろしいことをするところだった自分に、さして動揺していないジョーが不自然。
ナイーブ過ぎる性格を持つからこそ、記憶操作が行われていたんじゃないの?
その記憶回復も、ギルモア博士のところへ連れて行けば安全に出来たんじゃないかなあ。
映画的ハッタリのため、とはいえ、フランソワーズらがあんなムチャをする理由がよく分からない。
ドバイ上空でも、ジョーとジェットの目的は同じだったはずで、他の何よりも惨劇を防ぐべきだったのでは。
もう間に合わない状況だったのかも知れないけど、恐ろしい被害を出す前のプロセスなので(ジョーは一人助かっちゃうし)、もっともっと注意深く繊細な描き方をしないと。
物語は、様々に謎を残して終わる。
目に見える形で「敵」だった企業さえ、まだ残ってるんじゃなかろうか。
ジェットは「やっちゃった」のかそうでないのか、ジョーの同級生少女は「彼」か「フランソワーズによる干渉(守護?)」か。
この作品での神とは、外的・内的どちらの存在だった?
特にラスト、不思議な力が働く訳で、外的「にも」存在していないと筋が通らない。
分からない部分について、矛盾なくキレイに解き明かすことは、制作者にも難しいのでは。
「実はコレコレこういうことだったんですよ」と語るのは出来るけど、「それも一つの考え方だよね」ぐらいにしか受け止めてもらえない恐れ。
聖書的モチーフだったのかな、と思う。
「ソドムとゴモラ」で、穢れた街を滅ぼすという神の使いに、心の正しい者も居るはずなのでそれを思いとどまって欲しい、と懇願するアブラハム。
最後に、「もしも正しい者が街に10人いたら、その10人のために滅ぼすことをやめよう」という約束にまで漕ぎ着ける。
結果、人数を満たすことは出来ず、街は滅ぼされてしまうのだが、「10人」って、サイボーグ戦士とギルモア博士を入れると丁度の人数。
また、街から逃げ出すアブラハム一家に神の使いは、「命がけで逃げなさい。振り返ってはならない。立ち止まってはならない。さもないと滅ぼされてしまうだろう」と言うのだけれど、ドバイで加速装置を使うジョーの姿に重なる…ような。
人の脳…心には神も悪魔もおり、善い面が勝れば穏やかな水の都を擁する地球に、悪い面が勝れば荒涼として生命のない月になってしまう、とか。
水の上を歩くのは、キリストの奇跡。
最後にフランソワーズが着ている純白の服は、何だかマタニティ・ドレスにも見えたので、そういう奇跡も…さすがに考え過ぎか。
つまらない訳ではなく、それはそれなりに楽しく見たし、入場料損したとは思わせない。
しかし、日曜日夕方の鑑賞で劇場は三割程度しか埋まっておらず、興行的に厳しそう。
続編やテレビシリーズ展開は難しいだろうな。
もっと分かり易いエンターテインメントにしてくれた方が嬉しかった。
それでもテーマは描けるはず。
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